Nikov’s blog

思考の整理 @NyoVh7fiap

なぜ発達障害の診断をつけるのか。

発達障害」というワードがこの10年ほどでかなりメジャーに取り上げられるようになりました。

 

発達障害の人が増えている」という表現がされることもありますが、けして発達障害の人が増えているわけではありません。

正しくは「発達障害の診断がつく人」が増えているのです。

 

時代や文化、国籍問わず、一定の割合で発達の偏りや特性のある人は存在します。

 

では、発達障害の診断は何のためにするのか考えたいと思います。

(ここでいう「発達障害」は、混同を避けるため「国際疾病分類(ICD-10)」の広汎性発達障害(PDD)を指します。

PDDは、アメリカ精神医学会の「精神障害の診断と統計マニュアル(DSM-5)」における自閉症スペクトラム(ASD)と同じ状態を指します)

 

前述したように、発達の偏りや特性がある人は一定数存在してきました。

さらに言えば、広義の意味で発達に偏りや特性のない人は存在しません。

誰でも、得意不得意の差や認知の違いは大なり小なりあります。

その得意不得意の差が顕著に激しかったり、認知の仕方や情報の取捨選択に特徴がある場合、社会生活に困難をきたします。

そうなった場合に、福祉機関や医療機関を通じて、発達障害の診断がつきます。(診断行為を行えるのは医師のみです)

 

ただ、似たような発達の偏りがあっても、物理的、経済的、環境的な要因で、社会生活の困り感が少ない場合、そのことに気づかずに社会適応している人も世の中にはたくさんいます。

逆にいうと、様々な環境要因を理由に、社会との関係の中に「障害」が生まれた場合、その人の困り感につながったり、不適応行動になったりしてはじめて、「障害」として認知されるわけです。

発達障害」は、個々人の特性のみに由来するわけではなく、「社会関係との間に障害がある状態」を指すわけです。

 

それぞれ大なり小なり発達の特性があるなら、発達障害の診断は必要ないのではないかという意見もでてくるかと思います。

語弊を恐れずに言うならば、もし社会があらゆる特性やマイノリティーに適応している環境であれば、発達障害の診断は必要ありません。

むしろ、発達障害という概念すら生まれていないかも知れません。

合理的配慮が法的に明記されましたが、これは発達障害の人が社会に適応しようとするだけではなく、"社会の方が"個人に適応していく必要があると、国が明確に示したとも言えるのです。

 

前置きが長くなってしまいましたが、本題に入ります。

 

「なぜ発達障害の診断をつけるのか。」

 

これは大きく分けて二つの理由があります。

 

ひとつめは、個人の困り感や失敗体験は「その人の努力不足ではない」ということを、"本人が"気づくためです。

 

発達に特性や偏りがある場合、幼少期学童期から失敗体験を繰り返していることがあります。

多くの場合、周りに叱られたり、自分自身を責めたりして、「失敗するのは自分の努力が足りないからだ」と思い込んでいます。

なぜなら、社会から暗に、時にははっきりと、そのようなメッセージを叩き込まれているからです。

努力の方法を教えてもらえないまま努力を続けさせられることほど苦しいことはありません。

 

その人自身が、「自分の努力不足ではなかった」と思えることは、大げさではなく人生の転機になり得ます。

 

ふたつめは、発達障害の診断がつくことで、その人の特性や特徴を、"家族や周りの人たちが"理解したり、配慮したりするヒントを得られるためです。

その人が困ったり失敗したりしたとき、何もそれを責める人ばかりではありません。

ただ、発達に特性や偏りがあると、いわゆる根性論や精神論は役に立ちません。

 

周りが励ましたり助けてあげたりしたいと思って、100%善意でしていることが、残念ながらその人を追い詰めていることもあります。

 

発達障害の診断がつくということは、周りがその人への伝え方や手助けの仕方を、"具体的に"知る大きなヒントになるのです。

 

発達障害の概念が周知されるのは良いことだと思います。

ただ、「発達障害なんて誰にでもある」という論調で、配慮や支援を「特権」として捉える風潮が一部あるのも事実です。

 

あえていうなら、発達の偏りや特性は誰にでもあります。

ただし、それによって困る度合いや、困っている内容、必要な配慮や対応は、千差万別なのです。

診断がつくということは、レッテルを貼るためではなく、その人が少しでも生きやすくなるための一助になります。

そのことが、社会に周知されてほしいと願っています。