ツイッターでは
#私が父親を嫌いになった理由
のタグで、娘の立場から被害を訴えるツイートが並んでいる。
中には明確に性的虐待や性暴力を受けた投稿も見られる。
一方で、乳児の娘の胸をツンツンしたら離婚されたとか、2歳の娘にちょっかいかけるのは小学生男子ノリの愛情表現だから許してなど、父親の軽率な投稿も散見される。
なぜ、このように娘と父親の間で認識の乖離が生まれるのか。
それは、女性(女児)を軽んじる態度と、性暴力への認識の甘さがあるのだと思う。
自分の娘だろうと、言葉のわからない乳幼児だろうと、ひとりの人間として尊重されるべき存在である。
日本社会では、「女性」と「子ども」は社会的マイノリティである。
絶対数が少ないという意味ではなく、社会的に抑圧され、差別されてきた社会的な歴史が、今もなお判然と横たわっている事実がある。
女性専用車両がなぜできたのか。
それは、女性への性暴力が事実としてそこにあるからである。
性暴力というと、挿入や暴力を含む、性的暴行を連想する人もいるかと思う。
しかし、たとえ軽微な(加害側から見て)な性的な接触であっても、それはれっきとした「性暴力」なのである。
そこに、加害者と被害者の乖離がある。
「これぐらいいいじゃないか」
「愛情表現じゃないか」
「嫌がっているようには見えない」
このような言葉で、性暴力被害者は黙らされてきた。(もちろん女性に限らない)
#metoo運動や#私が父親を嫌いになった理由
のタグは、これまで黙らされてきた性暴力被害者の声なき声を、社会に拡げるひとつのツールなのだと思う。
話をはじめに戻すが、娘(ないし息子)への嫌がらせや性的な接触は、それら性暴力と地続きである。
「愛情表現だから」
「まだ子どもだから」
「子どものことは愛しているから」
は、何ら理由にはならない。
5歳の娘を持つ父親として、もしかしたら自分が娘に嫌な思いをさせてしまうかもしれないという意識を、常に持っておかなければならないと思う。
もちろん、愛情表現はたくさんしていきたい。
しかし、それはプライベートゾーンを犯さなくても、過度なスキンシップをとらなくても、可能なことだと思う。
年齢や発達に応じたスキンシップや、親子の境界を守ること、それが、娘をひとりの人間として尊重することになるのだと思う。