パワハラ、モラハラ、セクハラ、DV、いじめ、児童虐待…社会にはさまざまな抑圧がはびこっている。
自分が被害に合っているという自覚がないこともある。
むしろ、被害に合っているにもかかわらず、自分を責めてしまう場合もある。
モラハラ気質の人と過ごしていると、「この人を怒らせてるのは自分のせいではないか」、「自分が変わればうまくいくんじゃないか」、「この人をわかってあげられるのは自分だけだから」という思考に陥りやすい。
— Nikov (@NyoVh7fiap) 2017年3月26日
自責的な思考は、自身を蝕むし、関係が潜在化深刻化してしまう可能性もある。
あるいは、愛情や友情と混同させられることで、混乱させられ、優しい言葉にすがってしまう。
例えば、親が子どもに、散々叱責したり、人格否定の暴言を吐いたあとに、ぎゅっと抱きしめて、「大事に思っているんだよ」「あなたのためだからね」と伝えると、子どもは情緒的混乱を起こす。
— Nikov (@NyoVh7fiap) 2016年11月25日
そして、自分の傷つきよりも、親の表面的な言葉にすがる。
ただし、加害という「行為」そのものは、その人の人格や関係性によって、相殺されるわけではない。
モラハラ、セクハラ、パワハラを受けているのに、あまり自覚していない人が共通して言う言葉。
— Nikov (@NyoVh7fiap) 2016年1月19日
「でもいい人だから…」
その人が「いい人」なのと「不快な思いをした」ことは全く別の話です。
「人柄」で、ハラスメントという「行為」は相殺できません。
「不快なものは不快」でいい。
「許す」という行為は、社会では美徳とされがちである。
もちろん「許す」ことによって、関係が再構築できたり、相手の行動が改善されたりすることもある。「許せる」ことはすごい力だと思う。
ただし、それは被害者の心の傷が、本当の意味で癒えてからでないといけない。
そして、本人の意思のみに委ねられるべきである。
けして、周りの人が、「許す」ことを強要することはあってはならない。
「許す」かどうかを決める権利は、抑圧されている側にある。
無理に「許そう」としてしまうと、必ずどこかに歪みが生じる。
傷つけられた人は、傷つけた人の心情や理由なんて考える必要ない。
— Nikov (@NyoVh7fiap) 2015年11月19日
ただ傷を癒すことだけ考えたらいい。
傷つけた人を許すかどうかは、傷がちゃんと癒えたときに考えたらいい。
ずっと癒えないならずっと許す必要もない。
傷ついたまま、無理に許そうとしたら、心が壊れてしまう。
許せない自分の「感情」に罪悪感を覚えなくてもいい。
「許しという美徳」から解放される権利が、被害者にはある。