最近TLで、
「保育園に預ける親は罪悪感を覚えるべき」
という意見について、論争が起きている。
また、長谷川豊の「自堕落な透析患者は自己責任」発言が炎上した。
「申し訳なく思っている」もしくは、「努力している」被援助者は、「救ってあげてもいい」という発想。
これは福祉制度の在り方から考えると、大きな間違いである。
なぜなら、福祉制度の利用は権利であり、利用条件さえ揃えば、誰にでも等しく権利が発生し、権利を行使するかどうかもそれぞれの自由だからである。
@NyoVh7fiap
— Nikov (@NyoVh7fiap) 2016年9月29日
同じ理屈で、
「被援助者は被援助者らしい態度や言動をとれ」
という思想は、福祉制度の在り方という視点で、間違っている。
単に、制度を利用できる条件を有しているかどうかで、制度利用の権利が発生し、権利を行使するかどうかもそれぞれの自由である。
福祉制度の利用を選別できるのは、あくまで法律や制度という「形式的正義」であって、援助者やいち国民の感情ではない。
@NyoVh7fiap
— Nikov (@NyoVh7fiap) 2016年9月29日
福祉制度の在り方に感情論で議論しても、ただ平行線になるだけ。
そこには必ず主観が入り込むから。
法律や制度は、「等しきものは等しく扱え」という形式的正義でなければならない。
自分が「援助してあげる人を選別できる」という発想の根底には、無自覚な「差別意識」と「排除思想」がある。
福祉制度の利用は権利。
— Nikov (@NyoVh7fiap) 2016年9月29日
条件が揃ってさえいれば、権利を行使するかどうかもその人の自由。
「保育園に預ける親は罪悪感を持て」
「病人は病人らしくあれ」
「障害者はつつましくあれ」
「生活保護受給者はひもじい生活をしろ」
これらすべて、根っこには差別意識と排除思想がある。
難民はスマホを持つな。
— Nikov (@NyoVh7fiap) 2016年8月18日
貧困者は少しの贅沢もするな。
精神疾患者はいつも辛そうであれ。
頑張る障害者は認めてあげる。
かわいそうな人は支援してあげる。
自分の中の差別意識に自覚がない。
無自覚な「差別意識」や「排除思想」は、大なり小なり誰しもが持っている。
援助者でも有識者でも人格者でも関係ない。
それが「人間の弱さ」でもある。
しかし、それらは人の生命を脅かす。
「選別する側の人間」が「選別される側」の命を絶つ。
自分の中にある「差別意識」と「排除思想」を自覚できるか。
「自分の弱さ」と真摯に向き合えるか。
私たちは、常にそれを問われ続けている。