Nikov’s blog

思考の整理 @NyoVh7fiap

児童相談所を叩いていいという社会の風潮が、いま子育てに悩んでいる親を追い詰める。

千葉の虐待死では、児童相談所の対応について多くのメディアが取り上げている。

 

児童相談所の人員不足、組織の問題として取り上げているところがある一方で、多くが児童相談所の対応の不備を正義の鉄槌によって叩く論調がある。

 

もちろん、失われるはずではなかった尊い命が亡くなったことは、児童相談所にも責任はある。

対応が問題なかったとは言い切れない。

 

しかし、児童相談所を叩いていいという社会の風潮が、現にいま子育てに不安を抱え、困っている親を追い詰めることになる。

 

児童相談所を叩く論調の中には、児童相談所の権限強化、警察とのより強い連携、強権力による介入を強めるべきという意見も散見される。

 

果たして、本当にそれで虐待死が防げるのだろうか。

児童相談所が強制的介入を強めることが、本当に虐待の抑止力になるだろうか。

 

私はその点について、懐疑的である。

 

むしろ、社会が児童相談所を叩き、虐待を叩くことが、いま子育てに困っている親、子どもを叩いてしまいそうな親、もしくはすでに叩いてしまった親が、社会からの断罪を恐れて、事前に相談する機会を奪ってしまわないだろうか。

 

センセーショナルに報道される虐待死事件は、児童虐待のごく一部分でしかない。

ほとんどの「児童虐待」と言われる行為をする親は、子育てに悩み、自分の人生に悩み、どこにも助けを求めることもできずに、家庭やひとりで抱え込み、どうすることもできずに、「児童虐待」に至る場合が多い。

もしくは、愛情の意味を履き違えて、伝え方がわからず、自分の間違った価値観を子どもに押し付ける場合もある。

(児童虐待を肯定しているわけではない)

 

なんとか子育てをしようとして、もしくは躾けようとして、ただその方法がわからず、結果的に「児童虐待」に至る。

 

語弊を恐れずにあえていうが、メディアで報道されるような「児童虐待親」と実際の「児童虐待をしてしまう親」には、イメージの乖離がある。

もちろん、一部の非人道的な親はたしかに存在するし、報道で取り上げられるようなケースはそういったケースが多いだろう。

それは、司法の枠組みにおいて裁かれるべきという意見には異論はない。

 

一方で、大半の「児童虐待してしまう親」は、社会によって断罪され、責められることを非常に恐れている。

 

児童相談所は、警察や裁判所のように、逮捕したり裁いたりする機関ではない。

 

あくまで、 児童"相談"所  なのである。

 

児童虐待は、密室育児、夫婦関係不和やDV関係、シングル家庭、ステップファミリー、望まない出産、貧困、親の生育歴や養育観、子どもの発達や障害、周りの無理解、孤立、支援者不信…色々なリスク要因が重なって起こる。

その構造は決して単純ではない。

 

子育てに悩んで、叩きそうになった、叩いてしまった親が、断罪されることを恐れず、取り返しがつかないことになる前に、児童相談所に相談できる土壌は、社会の空気によって醸成されると思う。

 

児童虐待の予防で効果的なのは、児童虐待が起こる前に、適切な支援者に繋がることである。

そういう意味では、いまもなお、大きな事件になるまえに、子どもや親と関わり、支援を通じて、防いだ児童虐待もある。

それらが報道されるようなことはもちろんない。

 

児童相談所の人員不足、余裕のない職場、経験の少なさや若手が育たない組織の問題、真面目な人ほど潰れてしまうような環境は変えないといけない。

 

ただ、社会が、子育てに対して、子育てに困っている親に対して、家族に真摯に向き合う支援者に対して、少しでも理解のある視線を送ることが、巡り巡って、児童虐待の抑止になる。

 

完璧な親なんてどこにもいない。

 

誰もが悩み、苦しみ、ときには失敗しながら、子どもと共に成長していく。

 

親が支えられることが、子どもにとっての支えになり、適切な支えがあれば、未然に防げる虐待はたしかにある。

「発達障害者は天才」という流言

発達障害者は天才」

 

発達障害者は特別な才能がある」

 

という形でメディアに取り上げられることがあります。

 

語弊を恐れずにいうと、これは大きな間違いです。

 

正しくは、

 

「天才が、発達障害だった」

 

「特別な才能のある人が、発達障害だった」

 

です。

 

たしかに、発達障害や特性を持つ人が、音楽的センスや美術的センスに秀でている場合はあります。

 

それは、細部に集中しやすい面や、こだわりの強さ、ひとつのことに没頭しやすい特性、情報の取捨選択の仕方が、社会的に承認される形で力を発揮できた場合です。

 

ただ、そのかげには、その特性ゆえに苦しんでいる人が埋もれるほどいます。

その人たちにはスポットはあたりにくい現実があります。

適切に福祉や医療につながらず、二次障害に苦しみ、周りからは努力不足と言われて、ギリギリの生活を強いられている人も多くいます。

 

発達障害者は特別な才能を持っているから、社会にとって尊重されるべきだ」

 

という論調は、某議員の発した

 

LGBTは生産性がない」

 

という思考と裏表です。

 

 

生産性があろうとなかろうと、センスがあろうとなかろうと、天才だろうと凡人だろうと、そこにその人が生きている事実に変わりはありません。

 

発達障害の人たちに、その力を発揮している人たちに、スポットをあてることは否定したくはありません。

 

ただ、スポットの当て方を間違えると、「無意識の差別意識」によって、さらに排除される人がいるということを、私たちは忘れてはいけないと思います。

 

なぜ発達障害の診断をつけるのか。

発達障害」というワードがこの10年ほどでかなりメジャーに取り上げられるようになりました。

 

発達障害の人が増えている」という表現がされることもありますが、けして発達障害の人が増えているわけではありません。

正しくは「発達障害の診断がつく人」が増えているのです。

 

時代や文化、国籍問わず、一定の割合で発達の偏りや特性のある人は存在します。

 

では、発達障害の診断は何のためにするのか考えたいと思います。

(ここでいう「発達障害」は、混同を避けるため「国際疾病分類(ICD-10)」の広汎性発達障害(PDD)を指します。

PDDは、アメリカ精神医学会の「精神障害の診断と統計マニュアル(DSM-5)」における自閉症スペクトラム(ASD)と同じ状態を指します)

 

前述したように、発達の偏りや特性がある人は一定数存在してきました。

さらに言えば、広義の意味で発達に偏りや特性のない人は存在しません。

誰でも、得意不得意の差や認知の違いは大なり小なりあります。

その得意不得意の差が顕著に激しかったり、認知の仕方や情報の取捨選択に特徴がある場合、社会生活に困難をきたします。

そうなった場合に、福祉機関や医療機関を通じて、発達障害の診断がつきます。(診断行為を行えるのは医師のみです)

 

ただ、似たような発達の偏りがあっても、物理的、経済的、環境的な要因で、社会生活の困り感が少ない場合、そのことに気づかずに社会適応している人も世の中にはたくさんいます。

逆にいうと、様々な環境要因を理由に、社会との関係の中に「障害」が生まれた場合、その人の困り感につながったり、不適応行動になったりしてはじめて、「障害」として認知されるわけです。

発達障害」は、個々人の特性のみに由来するわけではなく、「社会関係との間に障害がある状態」を指すわけです。

 

それぞれ大なり小なり発達の特性があるなら、発達障害の診断は必要ないのではないかという意見もでてくるかと思います。

語弊を恐れずに言うならば、もし社会があらゆる特性やマイノリティーに適応している環境であれば、発達障害の診断は必要ありません。

むしろ、発達障害という概念すら生まれていないかも知れません。

合理的配慮が法的に明記されましたが、これは発達障害の人が社会に適応しようとするだけではなく、"社会の方が"個人に適応していく必要があると、国が明確に示したとも言えるのです。

 

前置きが長くなってしまいましたが、本題に入ります。

 

「なぜ発達障害の診断をつけるのか。」

 

これは大きく分けて二つの理由があります。

 

ひとつめは、個人の困り感や失敗体験は「その人の努力不足ではない」ということを、"本人が"気づくためです。

 

発達に特性や偏りがある場合、幼少期学童期から失敗体験を繰り返していることがあります。

多くの場合、周りに叱られたり、自分自身を責めたりして、「失敗するのは自分の努力が足りないからだ」と思い込んでいます。

なぜなら、社会から暗に、時にははっきりと、そのようなメッセージを叩き込まれているからです。

努力の方法を教えてもらえないまま努力を続けさせられることほど苦しいことはありません。

 

その人自身が、「自分の努力不足ではなかった」と思えることは、大げさではなく人生の転機になり得ます。

 

ふたつめは、発達障害の診断がつくことで、その人の特性や特徴を、"家族や周りの人たちが"理解したり、配慮したりするヒントを得られるためです。

その人が困ったり失敗したりしたとき、何もそれを責める人ばかりではありません。

ただ、発達に特性や偏りがあると、いわゆる根性論や精神論は役に立ちません。

 

周りが励ましたり助けてあげたりしたいと思って、100%善意でしていることが、残念ながらその人を追い詰めていることもあります。

 

発達障害の診断がつくということは、周りがその人への伝え方や手助けの仕方を、"具体的に"知る大きなヒントになるのです。

 

発達障害の概念が周知されるのは良いことだと思います。

ただ、「発達障害なんて誰にでもある」という論調で、配慮や支援を「特権」として捉える風潮が一部あるのも事実です。

 

あえていうなら、発達の偏りや特性は誰にでもあります。

ただし、それによって困る度合いや、困っている内容、必要な配慮や対応は、千差万別なのです。

診断がつくということは、レッテルを貼るためではなく、その人が少しでも生きやすくなるための一助になります。

そのことが、社会に周知されてほしいと願っています。

 

「怒りの対象を間違えない」ということ。

 

僕の尊敬する人の言葉です。

 

 

つい先日、仕事で別の部署の中間管理職からこっぴどく叱られました。

その方とは普段から関係は良かった(と思っていた)し、10年以上前、別の部署で一緒に働いていたこともあり、可愛がってくれていました。

だからこそ、普段からいい関係を作ってきたつもりだし、その部署とは業務上も非常に密接に仕事をするので、調整は密にしてきたつもりでした。

 

それが今回、少しの行き違いのために、

「うちの部署をないがしろにしているのか!ちゃんと調整しろ!」と叱られてしまいました。

 

僕はそれはもう非常に落胆しました。

確かに僕の根回しは甘かったと思うし、もう少し配慮するべきだったとは思います。

それでも、これまでの努力が全て否定された気持ちになりました。

 

その方はおそらく、自分の部署の職員体制や状況をみて、僕に苦言を呈されたのだと思います。

 

ただ、少し感じたのは、職員体制を調整するのはその方の役割だし、もっと言えば職員が不足していることへの怒りは、僕に向けられるべきものなのかということです。

 

その怒りは真っ当なものだと思うし、言っている内容は十分理解できますが、自分が同じ立場になったとき、怒りを向ける相手と伝え方は気をつけないと、自分が思っている以上に、相手を不当に傷つけてしまうことがあるのではないかと思った出来事でした。

 

娘をひとりの人間として尊重するために

ツイッターでは

#私が父親を嫌いになった理由

のタグで、娘の立場から被害を訴えるツイートが並んでいる。

中には明確に性的虐待や性暴力を受けた投稿も見られる。

 

一方で、乳児の娘の胸をツンツンしたら離婚されたとか、2歳の娘にちょっかいかけるのは小学生男子ノリの愛情表現だから許してなど、父親の軽率な投稿も散見される。

 

なぜ、このように娘と父親の間で認識の乖離が生まれるのか。

 

それは、女性(女児)を軽んじる態度と、性暴力への認識の甘さがあるのだと思う。

 

自分の娘だろうと、言葉のわからない乳幼児だろうと、ひとりの人間として尊重されるべき存在である。

 

日本社会では、「女性」と「子ども」は社会的マイノリティである。

絶対数が少ないという意味ではなく、社会的に抑圧され、差別されてきた社会的な歴史が、今もなお判然と横たわっている事実がある。

 

女性専用車両がなぜできたのか。

それは、女性への性暴力が事実としてそこにあるからである。

 

性暴力というと、挿入や暴力を含む、性的暴行を連想する人もいるかと思う。

しかし、たとえ軽微な(加害側から見て)な性的な接触であっても、それはれっきとした「性暴力」なのである。

そこに、加害者と被害者の乖離がある。

 

「これぐらいいいじゃないか」

「愛情表現じゃないか」

「嫌がっているようには見えない」

 

このような言葉で、性暴力被害者は黙らされてきた。(もちろん女性に限らない)

 

#metoo運動や#私が父親を嫌いになった理由

のタグは、これまで黙らされてきた性暴力被害者の声なき声を、社会に拡げるひとつのツールなのだと思う。

 

話をはじめに戻すが、娘(ないし息子)への嫌がらせや性的な接触は、それら性暴力と地続きである。

 

「愛情表現だから」

「まだ子どもだから」

「子どものことは愛しているから」

 

は、何ら理由にはならない。

 

5歳の娘を持つ父親として、もしかしたら自分が娘に嫌な思いをさせてしまうかもしれないという意識を、常に持っておかなければならないと思う。

 

もちろん、愛情表現はたくさんしていきたい。

 

しかし、それはプライベートゾーンを犯さなくても、過度なスキンシップをとらなくても、可能なことだと思う。

 

年齢や発達に応じたスキンシップや、親子の境界を守ること、それが、娘をひとりの人間として尊重することになるのだと思う。

 

 

 

マジョリティとマイノリティの非対称性について

小室哲哉の引退会見を見て感じた違和感。

 

小室哲哉の引退会見への反応は、介護の大変さ故に精神的な支えは必要という点で、比較的緩やかだったように思う。(僕の観測する範囲では)

 

しかし、もし、これが夫の介護をする女性芸能人が不貞行為を行った場合、社会の反応はどうだっただろうか。

もっと糾弾されていたのではないだろうか。

 

実際に、女性芸能人の不貞行為は男性のそれよりも、社会の反応は厳しい。

 

その背景には、マジョリティ(ここでは男性)とマイノリティ(ここでは女性)の非対称性がある。

 

今回の件で言えば、女性の役割である介護を請け負う夫(男性)が、精神的な支えを必要として不貞行為を成すのは仕方がないという視点である。

 

男性と女性に限らず、マジョリティとマイノリティの非対称性はいたるところに存在する。

 

マイノリティが声をあげるだけでは社会は変わらない。

介護、育児などケアの問題に限らず、社会問題についてマジョリティこそ問題提起をしていく必要がある。

 

 

頑張りすぎているあなたへ-「頑張る」の再考-

 

 

「頑張れ」

 

という言葉は、小さい頃から何百回も言われてきたと思う。

 

頑張ることで得られる結果もある。

 

一方で、頑張りすぎて潰れてしまう人もいる。

 

この違いは何なのかを考えるために、「頑張る」の意味を再考したいと思う。

 

頑張ることは悪いことではない。

ただ、頑張ることで自分の心身が削られるのであれば、それは注意したほうがいい。

 

そして、頑張れる範囲も人によって違う。

 

誰かが100頑張って100の結果を得られたからといって、別の人は同じ環境でも50しか頑張れない場合もある。なんとか100頑張っても、50の結果しか出ないこともある。

その人のコンディションや環境など要因はさまざまである。

100頑張れる人が50頑張っている人を責める権利はない。

 

「頑張った総量」と「結果」の因果関係を短絡的に結ぶのも非常に危険である。

「結果」には、運やタイミングなどの要素も多分に含まれているからである。

 

頑張ることの意味を否定するつもりはない。

頑張ることによって得られるものはたくさんある。

ただ、頑張りすぎることで失うものがあるのなら、頑張り方は変えたほうがいい。

周りは無責任に、時には善意で、「頑張れ、頑張れ」と言う。そこに悪意はない。

悪意はないからこそ、みんな応えようとする。

 

でもふと立ち止まって考えてみると、頑張りすぎた結果、何もかも失ってしまっても、「頑張れ」といってくれた人たちがどうにかしてくれるわけではない。

多くの場合、個人の力量の責任になる。

 

そうならないために、「頑張る」の意味を考え直す必要があると思う。

 

「頑張る」というのは「心身を削ってでも無理をする」ことではなく、「自分が持っている力を発揮する」ことだと思う。

 

こう考えたとき、頑張る場面になったとき、「自分の持っている力」の範囲で頑張ればいい。何かを失ってまで頑張る必要はない。

まして、周りにもっと頑張れと言われても、自分の持っている力を発揮できていれば、耳を傾けることもない。

 

頑張りすぎた結果、社会からドロップアウトしてしまう人もたくさんいる。

一度ドロップアウトしたら、復帰するまでには、相当の時間と労力がかかる。

復帰してもまたドロップアウトを繰り返してしまうこともある。

 

少しでも生きやすい社会を作っていくためには、「頑張る」の意味を再考する必要があるのではないかと思う。