Nikov’s blog

思考の整理 @NyoVh7fiap

「社会が障害に適応していく」という視点。

発達障害は、生まれつき持っている発達の特性や偏りと、育ちの環境の中での、不適応行動や困り感から、診断がなされる。




そして、発達の特性や偏りは、大なり小なり、誰もが持っている。

足が速い人もいれば、遅い人もいる。

歌がうまい人がいれば、苦手な人もいる。

絵がうまい人がいれば、苦手な人もいる。

同様に、

コミュニケーションが得意な人がいれば、苦手な人もいる。

先の見通しを立てたり、状況判断が得意な人がいれば、苦手な人もいる。

物事にこだわる人がいれば、こだわらない人もいる。


では、なぜわざわざ発達障害の診断が必要なのか。

もう一度言いますが、発達の特性や偏りは誰にでもあります。
ただし、そのバランスは人それぞれです。

発達の特性や偏りのアンバランスさが大きければ大きいほど、学校や社会で適応するためのハードルがあがります。
なぜなら、学校や社会はほとんどの場合、マジョリティ側が生きやすいように設計されているから。

仮に、発達の偏りや特性が全く同じ人物がいたとしても、養育環境や社会状況によっては、診断がつく人とつかない人がいる。
なぜなら、環境によって、本人の困り感や不適応行動のあり方は全く異なってくるから。

環境が整っていて、本人の困り感や不適応行動がなければ、発達障害の診断はおりない。
診断がおりないどころか、専門機関にかかることもなく、社会適応していく可能性さえある。
(環境による二次的トラウマや自己肯定感の話も深く関連していますが、話が長くなるので、ここでは言及しません)

そう考えると、障害そのものが、個人の側にあるのではなく、社会や環境の側にあると言える。
「障害児者が社会に適応していく」だけではなく、「社会が障害に適応していく」という視点。



ではなぜ、発達障害の診断が必要なのか。

それは、本人の困り感や生きづらさ、不適応行動の要因を捉えて、環境を整えていくため。
https://twitter.com/nyovh7fiap/status/746510651359518720


環境の設定や個別的配慮によって、本人の困り感や不適応行動は、大きく変わります。

具体的には、


など。

 

発達障害への無理解や偏見、差別を無くしていくためには、個人や保護者の努力だけでは限界がある。
社会が意識を変えていく必要がある。

「許し」という美徳

パワハラモラハラ、セクハラ、DV、いじめ、児童虐待…社会にはさまざまな抑圧がはびこっている。

 

自分が被害に合っているという自覚がないこともある。

むしろ、被害に合っているにもかかわらず、自分を責めてしまう場合もある。

 

 あるいは、愛情や友情と混同させられることで、混乱させられ、優しい言葉にすがってしまう。

 

ただし、加害という「行為」そのものは、その人の人格や関係性によって、相殺されるわけではない。

 

「許す」という行為は、社会では美徳とされがちである。

もちろん「許す」ことによって、関係が再構築できたり、相手の行動が改善されたりすることもある。「許せる」ことはすごい力だと思う。

 

ただし、それは被害者の心の傷が、本当の意味で癒えてからでないといけない。

そして、本人の意思のみに委ねられるべきである。

けして、周りの人が、「許す」ことを強要することはあってはならない。

「許す」かどうかを決める権利は、抑圧されている側にある。

無理に「許そう」としてしまうと、必ずどこかに歪みが生じる。

 

 許せない自分の「感情」に罪悪感を覚えなくてもいい。

「許しという美徳」から解放される権利が、被害者にはある。

共働き子育て「フルタイム定時退社+フルタイム時短」と「フルタイム激務+パート勤務」どちらも経験した結果

妻と2人で、もうすぐ4歳になる長女を、共働きで子育てをしています。

 

以前の職場は、自分がフルタイム定時退社、妻がフルタイム時短で、2年間。

 

現在は、自分がフルタイム激務、妻がパート勤務で、1年間。

 

この2つのパターンで、共働き子育てを経験してきて感じたことを、まとめたいと思います。

 

まず、どっちもフルタイムパターン。

 

妻は時短勤務でしたが、育休復帰前と業務量は変わらなかったので、なにせ時間が足りない。

土曜は毎週サービス残業、平日も何日かは残業日を作って、その間、自分が家事育児担当。

 

妻の実家は遠方、自分の実家は近いが実父は仕事、実母が持病持ちなので、祖父母というリソースは使えない。

家事育児はほぼ半分ずつ分担していました。

 

この頃、娘は超絶イヤイヤ期ど真ん中だったので、本当に余裕のない毎日でした。

1番大変だったのが、やはり娘の発熱などイレギュラー対応。

保育園迎えの調整から通院、看病まで、ワンオペ対応。

抱っこ紐の中で娘のう◯こやゲ◻︎に一緒にまみれたのは、今ではいい思い出(遠い目)

 

そして、娘が元気になってきたころには、妻か自分が順番に倒れていくというおまけつき。

子どもからもらった病気はとにかくツライ。 

 

幸い、お互いの職場には、子育てに理解のある方達がいたおかげで、なんとか仕事の調整ができ、切り抜けた感じです。

 

いや、正しくは、自分は育児うつになりかけたので、切り抜けたとも言い難いかも↓

 

 http://nikov.hatenablog.com/entry/2016/02/24/181319

 

まぁそれはともかく、この2年間で感じたのは、

 

「共働き子育て世帯に対する社会資源が少なすぎる問題」

 

日々の仕事と子育てはともかく、発熱などイレギュラーなときに使える社会資源がない。

当然、自分たちでなんとかするしかない。

娘はイヤイヤ期で、ほとんどのことが予定通りにいかない。

なかなか大変な日々でした。

 

ただ言えるのは、この大変な時期を通じて、夫婦間の子育てに対する「共有」は自然とできていたのではないかということ。

(もちろん衝突もたくさんありましたが)

この「共有」が今後もキーワードとなります。

 

 

続いて、自分がフルタイム激務、妻がパート勤務のパターン。

 

自分が激務の職場に異動することがほぼ確実だったので、散々悩んで話し合った結果、妻がパート勤務になるという結論に至りました。

(その理由は様々な要因が絡み合っていますが、ここでは割愛)

 

幸い、妻のキャリアが活かせる分野の仕事がパートで見つかったので、幸運でしたが、ここで感じたのは、

 

「女性が子育てをしながら、キャリアを諦めずに、働き続けられない問題」

 

なにせ、妻が仕事自体辞めてしまったら、娘が保育園に行けなくなる。

娘は0歳児クラスから、とても楽しんで保育園に通ってくれていたので、急にその居場所を奪ってしまいたくはない。

 

しかし、一度退園してしまうと、保育園に入り直すにはパートでは厳しい。

というか、子連れで保育園が決まってなかったら、再就職すら無理。

女性の就労と子育ての両立の難しさを痛感。

 

そして去年の4月、自分が激務の職場に異動。

勤務内容も大きく変わったので慣れないこともあり、ほぼ毎日帰宅は娘が寝てから。

 

つい3月までは、寝かしつけは自分がしていたので、4月から急に帰ってこなくなったため、「パパがいない〜‼︎(号泣)」の日々。(妻いわく)

 

娘が情緒不安定な中、自分が担っていた家事育児はほぼ全て妻へ。

妻が働いていた分が、ほぼ全て自分に。

という感じになりました。

 

妻が家事育児をほぼ全て負担してくれていることに申し訳なさを感じつつ、自分もいっぱいいっぱいだったので、夫婦間の「共有」ができない日々が続きました。

 

そして、ついに妻がキレたのです(語弊あり)

 

 

 

 そうです、家事育児をほぼ分担していたころは、自然にできていた「共有」が全くおろそかになっていたのです。

 

自分としては、今は精一杯仕事をするのが自分の役割(もちろん可能な範囲で家事育児はしていましたが)と思っていた節があり、子育てや家庭のことを「共有」するという視点が抜け落ちていたのです。

 

自分は精一杯やっているのに、なぜかしっくりこない、うまくいかないという感じはありました。

むしろ、「こんなに頑張っているのに、認めてもらえていない」という憤りすら感じたこともありました。

 

ただ、妻が求めていたことと、自分が頑張っていたことには、大きなズレがあったのです。

 

妻が求めていたことは、仕事や家事育児を夫が頑張るという物理的な問題だけではなく、「共有できている感覚」だったのです。

 

共働き子育てをしていると、お互いに余裕がないので、つい「自分だってこれだけ頑張っているのに」という気持ちになってしまいます。

 

けど、大事なことは、 「共有」できているかという大前提なのではないかと感じました。

 

「夫婦間で、子育てのことを「共有」できているか問題」

 

ここに夫婦間のズレがあると、お互いどれだけ頑張っていても、うまくいっていない感覚だけが募っていくように思います。

 

(最後に余談ですが、今はどうしているかというと、朝早く出勤して朝型残業に切り替え。

夜、娘が起きている間に帰宅するようにしてからは娘も安定、夫婦間のズレも徐々に修正中です)f:id:Nikov:20170313204001j:image

「自分を大切にする」ということ

2016年の2月、育児と仕事に追われ、心のバランスを崩した。

以降、心療内科にお世話になっている。

 

今も抗うつ剤抗不安薬(頓服で睡眠導入剤)を欠かせない生活になった。

 

飲み忘れると、文字通り、使い物にならなくなる。

頭の回路がトンチンカンな状態になる。

 

現在は、家族や周りの理解や支えのおかげで、なんとか日々の生活を過ごせている。

 

なんとかここまでやってこれて学んだことは

 

「自分を大切にする」

 

ということ。

 

文字にすると、ごくごく当たり前のことかもしれない。

しかし、社会には、それを阻む多くの歪んだ価値観がある。

その価値観は、自分の感情を殺すための装置。

 

日本社会で生まれ育ち、生きていく中で、知らぬ間にその装置を、自ら背負い、もしくは背負わされ、押してしまう。

 

近年、「自己肯定感」という言葉が、よく見られるようになった。

 

自己肯定感とは、「自分が自分である」というだけで、「大切な存在だ」と思えること。

 

「何かを持っている、持っていない」「何かができる、できない」など、他の評価軸で左右されないもの。

 

「自分が自分であることを肯定する」ということは、「自分の感情を大切にする」ということ。

「自分の感情」は誰かにジャッジされるものではない。

どんな感情だとしても、それを否定することは誰にもできない。

 

「自分の気持ちを大切にする」

つまり「自分の感情は、誰にも侵害されない、否定されない」と、自分の感情を認める、肯定する。

 

自分自身、そして社会のあらゆるところに存在する、自分の感情を殺す装置。

それを自ら押すと、どんどんと生きづらくなってしまう。

 

そうなる前に、「自分の感情を肯定する装置」を背負い、ささいなことでも、そのスイッチを押すことを、今年の目標にしていきたいと思う。

 

 

 

 

 

無自覚な「差別意識」と「排除思想」

最近TLで、

「保育園に預ける親は罪悪感を覚えるべき」

という意見について、論争が起きている。

 

また、長谷川豊の「自堕落な透析患者は自己責任」発言が炎上した。

 

 

「申し訳なく思っている」もしくは、「努力している」被援助者は、「救ってあげてもいい」という発想。

 

これは福祉制度の在り方から考えると、大きな間違いである。

 

なぜなら、福祉制度の利用は権利であり、利用条件さえ揃えば、誰にでも等しく権利が発生し、権利を行使するかどうかもそれぞれの自由だからである。

 

福祉制度の利用を選別できるのは、あくまで法律や制度という「形式的正義」であって、援助者やいち国民の感情ではない。

 

自分が「援助してあげる人を選別できる」という発想の根底には、無自覚な「差別意識」と「排除思想」がある。

 

無自覚な「差別意識」や「排除思想」は、大なり小なり誰しもが持っている。

援助者でも有識者でも人格者でも関係ない。

それが「人間の弱さ」でもある。

 

しかし、それらは人の生命を脅かす。

「選別する側の人間」が「選別される側」の命を絶つ。

 

自分の中にある「差別意識」と「排除思想」を自覚できるか。

自分の弱さ」と真摯に向き合えるか。

 

私たちは、常にそれを問われ続けている。

 

 

 

三歳児神話は、あくまで神話でしかない

 

保育園に子どもを預けて、子育てをしていると、しばしばこのようなことを言われる。

 

「0歳から保育園なんて子どもがかわいそう」

 

「3歳まではお母さんと一緒のほうがいい」

 

「そこまでして働く必要あるの?」

 

あげくのはてには

 

「保育園育ちの子は、問題行動を起こす子になる。」

 

とまで。

 

実母にも「保育園で育った子は云々かんぬん」と言われて、辟易した覚えがある。

 

いわゆる「三歳児神話」由来の発言。

 

確かに、 3歳までの養育者や周りの大人との、愛着(アタッチメント)形成は非常に重要である。

 

これは1952年、ボウルビィが提唱した「アタッチメント理論」 に端を発している。

 

ボウルビィは、乳幼児期の、特定の養育者と愛着(アタッチメント)を形成することが、その後の育ちに大きな影響を与えると述べた。

 

 

しかし、ボウルビィは、特定の養育者を「母親のみ」に限定してはいない。

 

 「アタッチメントとは本来、特にネガティヴな情動状態を、他の個体とくっつく、あるいは絶えずくっついていることによって、低減、調節しようとする行動制御システムのことだったのである。」

 

「恐れの情動が強く喚起されるような危機的状況や、病気や疲労の状態にあるときなどに、その場に適切なアタッチメント行動を発動させ、他個体から慰撫や保護が得られると、今度はそれを静穏化させるといった一連の行動連鎖を司る。」

 

 「恐れや不安が発動されている状態において、自分が誰かから一貫して "保護してもらえるということに対する信頼感" こそがアタッチメントの本質的要件であり、それが人間の健常な心身発達を支える核になる。」

 

「ボウルビィによれば、他個体との近接を維持するということは、文字通り距離的に近い距離にい続けるということのみを意味するわけではない。

 それはたとえ物理的に離れていても、特定対象との間に相互信頼に満ちた関係を築き、危急の際には、その対象から助力、保護してもらえるという、主観的確信や安心感を絶えず抱いていられるということをも意味する。

f:id:Nikov:20160919131356j:image

出典:『アタッチメント-生涯にわたる絆-』

          数井みゆき 遠藤利彦 編著

 

 つまり、乳幼児期に、特定の養育者によって、保護や慰撫が得られることで、養育者と離れていても、「自分は守られる存在だ」と、主観的確信や安心感を抱いていられる状態を、獲得していくということである。

 

そして、アタッチメント形成に重要なのは、「対象が誰か」よりも、「養育者の敏感性と応答性の質」である。

 

つまり、アタッチメント形成の対象者は、「母親」には限定されておらず、アタッチメント理論の観点からみても、三歳児神話は、あくまで神話でしかないと言える。

 

また、NHKすくすく子育てでも有名な、恵泉女学園大学教授 大日向 雅美先生は、「日本赤ちゃん学会」のシンポジウムで、以下のように述べている。

 

「育児の適性は女性が生来的に持っているのだから、母親が育児に専念しなければならない」という考え方には、必ずしも絶対的な根拠はないといえます。

 

なぜなら、幼少期に注がれるべき愛情は、適切かつ応答的な情報であり、それは母親だけが担えるものとは限らないからです。

養育行動を想像していただければおわかりのように、子どもを抱き、笑顔であやし、食事を与えるという養育者の行動は、いずれも触覚、視覚、聴覚、味覚等の情報として子どもにキャッチされています。

もっとも、いくら情報といっても一方的に与えればいいのではなく、子どもの状態に併せて応答的に与えられることが大切ですし、しかも、そこには子どもを愛おしく思い、子どもが育つ力を精一杯支援しようという責任感に裏付けられた温かな思いやりが込められている必要があることは言うまでもありません。

 

こうした愛情を注げるように母親も努力することは無論、必要です。

しかし、母親以外の人、父親や祖父母、保育者や地域の人々もこうした愛を子どもに注ぐことは可能ですし、現に多くの人々がそうした養育行動を発揮しています。

逆に母親であっても、置かれている生活環境が厳しい等の原因があって、苛立ちやストレスを強めてしまう結果、子どもに適切な愛情を注げない事例は少なくありません。

出典:日本赤ちゃん学会 シンポジウム2
        3歳児神話を検証する2~育児の現場から~

    f:id:Nikov:20160919134749j:image

http://www.crn.or.jp/LABO/BABY/SCIENCE/OHINATA/

 

 以上のように、科学的、論理的に三歳児神話は否定されていると言える。

 

しかし、ネット上での子育てに関する論争は絶えない。

 

その裏には、それぞれが子育てに苦労し、「自分の子育てを正しいと思いたい。肯定されたい」という心理が働いているのではないかと思う。

 

ただひとつ、自分が子育てしていく中で感じることは、状況に応じて「子どもにとって」よりベターな選択肢をとっていくしかない、それが、子どもに伝わっていると信じるしかない、ということ。

 

そして、一見、相反するようなそれぞれの感情を、共存させながら、子育てしていくことが大切なのではないかと思う。

高畑容疑者と発達障害

 

強姦致傷事件を起こした高畑容疑者。

 

ネットで「高畑容疑者 発達障害」で検索すると、

 

「高畑容疑者は、発達障害では⁉︎」

「奇行は発達障害だからか⁉︎」

「幼少時からの気になるエピソード!」

 

といった記事やブログが散見される。

一部メディアでも報道された。

 

なぜこのような現象が起きるのか。

 

 

発達障害の人口比率は、おおよそ5%〜10%

(諸説ありますが、ここでは深く言及しません)

 

ちなみに、血液型がAB型の人口比率は、9〜10%

 

しかし、重大事件や性犯罪が起きた時に、

「容疑者はAB型だった!」

という報道は、絶対にされません。

 

なぜか。

それは「AB型と犯罪に明白な相関性がない」という共通理解があるから。

 

ではなぜ、「発達障害と犯罪に明白な相関性がある」というデータの有無に関わらず、

発達障害=犯罪予備軍

というような間違った認識が、当たり前のように流布されるのか。

 

これは、

「 犯罪を犯すような人は、発達障害だった」

と認識することで、

「自分とは違う」

と安心したい差別意識「排除思想」から来ているのではないか。

 

 

発達障害は、生まれつき持っている発達の特性や偏りと、育ちの環境の中での、不適応行動や困り感から、診断がなされる。

 

 

そして、発達の特性や偏りは、大なり小なり、誰もが持っている。

 

 足が速い人もいれば、遅い人もいる。

 

歌がうまい人がいれば、苦手な人もいる。

 

絵がうまい人がいれば、苦手な人もいる。

 

同様に、

 

コミュニケーションが得意な人がいれば、苦手な人もいる。

 

先の見通しを立てたり、状況判断が得意な人がいれば、苦手な人もいる。

 

物事にこだわる人がいれば、こだわらない人もいる。

 

 

では、なぜわざわざ発達障害の診断が必要なのか。

 

もう一度言いますが、発達の特性や偏りは誰にでもあります。

ただし、そのバランスは人それぞれです。

 

発達の特性や偏りのアンバランスさが大きければ大きいほど、学校や社会で適応するためのハードルがあがります。

なぜなら、学校や社会はほとんどの場合、マジョリティ側が生きやすいように設計されているから。

 

仮に、発達の偏りや特性が全く同じ人物がいたとしても、養育環境や社会状況によっては、診断がつく人とつかない人がいる。

なぜなら、環境によって、本人の困り感や不適応行動のあり方は全く異なってくるから。

 

環境が整っていて、本人の困り感や不適応行動がなければ、発達障害の診断はおりない。

診断がおりないどころか、専門機関にかかることもなく、社会適応していく可能性さえある。

(環境による二次的トラウマや自己肯定感の話も深く関連していますが、話が長くなるので、ここでは言及しません)

 

そう考えると、障害そのものが、個人の側にあるのではなく、社会や環境の側にあると言える。

「障害児者が社会に適応していく」だけではなく、「社会が障害に適応していく」という視点。

 

 

話を戻します。

 

なぜ、発達障害の診断が必要なのか。

 

それは、本人の困り感や生きづらさ、不適応行動の要因を捉えて、環境を整えていくため。

 

 環境の設定や個別的配慮によって、本人の困り感や不適応行動は、大きく変わります。

 

具体的には、

など。 

 

 

今回のような、発達障害への無理解や偏見、差別を無くしていくためには、個人や保護者の努力だけではなく、社会が意識を変えていく必要がある。